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消されたくないからさー。
私がデイでOTとして雇われたのは、加算を取るためです。
先日、その研修に行ってきましたが、
参加者100人のなかで
OT 私だけ
がーん。
ま、でもいっか!
「生活の向上」が目的なのだそうです。
ケアプランから、目的を絞り込み、日常生活でできることを増やしていくのが、この加算の目的。
ADLから・・・と学んだけど、でもやっぱりQOLの向上入れたいよなあ。
対象者が「できる」ことが増えるのも勿論だけど
「嬉しい」時間が沢山増えることが、一番重要な気がする。
余暇活動とか、どんどん入れたいのですけどね。
どうなのかな。でも私らしくやりますわよ。
なーんちゃって。
大口叩いてる割に小心者な、私です。
放置していったいどれくらい経つのでしょうか。
でも、思い入れがないブログだなんて、いえません。
私が高校の時から志した道を、もう一度学び、そこから仕事に・・・その過程を放置していたとはいえ書いていたので。
消されたくないから書く、とはなんとも後ろ向きな理由だけど、前向きに働いています。
ちょこっとだけ、ご報告。
現在、高齢者のデイサービスにいます。
まだ入って1ヶ月。新米ですねえ。
でも、新米でも課されたものは、ベテランの介護職員さんには作れない。
いや、作れると思うけど、「施設として」「医療従事者が」「医療的に対象者に介入する」証拠、という前提からすると、やはり私にしか作れない。
・・・ってかそんなの私が作れるわけがなーい!
とは思ったものの、やる気を出したらスイッチ入って
じゃんじゃんばりばり手書きで(!!)作る作る
・・・おっと、私、頑張ってる?
うん、頑張ってる!
というわけで、今は「評価表」を作っております。
大変ですが、充実しています。
少しずつ、形になっていくのが嬉しい。
自分がOTとして働けている(わからないけど)のが、嬉しい。
母も喜んでくれるかな?
以上、近況報告です。
久々更新です。
でも、内容はちょっと・・・ごめんなさい。
施設の利用者さんに、アンビバレントな感情を持ってしまいちょっとしんどいです。
嬉しいこと、ありがたいこと、感謝したいこと・・・というような感情がある一方で、いらいらすること、振り回されて疲れること、落ち込むこと・・・そんな感情ものしかかってきています。
いくらなんでも詳細を書くわけにはいかないし、書くつもりもないけれど、明日出勤したときどんな顔でその方と接したらいいか悩んでいます。
やっぱり弱いなー。
こんな弱い人間、なかなかいないよなー。
ひととひとがガチンコでぶつかり合うのが、介護職であり、医療従事者だったりする。
もちろん、私の場合「食事の現場」を介しているし、リハ職なら「治療的なアプローチ」を介しているけれど。
でも、洋服売ってた頃の人間関係(対お客様)とは明らかに違う。密接だ。
だからこそ、距離感をどう取るか、が難しい。
職場を離れた場所でも巻き込まれて悩んでいる私は、やはり距離の取り方がへたくそなんだな。
今後の課題を与えてもらったこと、ととらえれば感謝できるかも。
ぼやきおわり。
明日、相当過酷な勤務が待ってるけど頑張ります!
私だよ。
ええ、私を平成の無責任女と呼んでください・・・
生まれは昭和だけど・・・
ひさかたぶりの更新ですが、ずっとずっと温めてきた記事です。
施設で働くようになって、考えるようになりました。
おそらく、リハビリの勉強をされた方なら(介護の勉強はどうなのかわからないけど・・・)、キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」にある「死の受容」のプロセスについては学ばれたと思います。
そして、リハビリ屋的にアレンジして解釈すると、「障害の受容」もそれに似たような経過をたどるのではないか、と私は習いました。
でも、過程を覚えているわけがない私なので、ウィキペディアさんにお世話になります。
以下、引用。
死の受容のプロセス
● 否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
↓
●怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
↓
●取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
↓
●抑うつ
なにもできなくなる段階である。
↓
●受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。
こんな感じで、ロス女史はまとめたのですが。
私は、そんなひとくくりにはできないよなあ、この通りにいく人なんているんだろうか、と半分は信じてません。
でも、なんらかの過程(それは人それぞれだと私は思います)を経て、人は死を意識し、受け入れていくのでしょう。
ところが、もし、この中に「ぼけ」が入ったらどうなるでしょうか。
認知症、あるいは医学用語としての「痴呆」を持っていたら。
意思疎通ができる人が、ここにいると仮定します。
自分が老いていき、できることが少なくなり、物忘れも激しくなり、自分がいったい何をやっているのかきちんと把握できない、そしてそのことが辛くて仕方ない人がいます。
その人に、どうやって「死を受け入れろ」と言えるでしょうか。
もちろん、そんな直接的な言葉じゃなくても、乗り越えたいけどうまく考えがまとまらずもどかしさでいっぱいの人・・・そして明らかに年齢的には自分よりも「死」が身近な人に、どんな言葉をかけたら良いのでしょうか。
わからない私。
とある方をモデルに書いてみましたが、基本的にフィクションです。
現実は、もっとリアルです。壮絶です。
死を受容すること。
それだけで、難しいのに。
「ぼけ」が加わると(その進行度にもよるけれど)、さらに難しさが増すのではないかな、と感じながら、いろいろ学びながら働けることに感謝しようと思います。
次こそは、間空けずに書く?
むーりーかーもーねー。
すみません、こちら放置しまくりでした。
書きたいことが貯まりに貯まっています・・・
本当は先に書きたいと思ったことから消化していけばよいのかもしれませんが、まずは学会(超ちっこいけど)行ったんだからそちらで感じたことを書いてしまおうと。
ということで、友人の天使ちゃんの発表を少しだけ私なりに解釈して。
米の国と、日の本の国(「の」をはずしてね)のリハ事情は、偉い違うことを知りました。
目の前に脳卒中の患者さんがいるとします。
(とりあえず、失語症や高次脳機能障害などは今回はないという設定でお考えください)
その方に自分がアプローチをするとしたら、どちらが患者さんのためになる、あるいはQOLの向上につながると考えますか?
◆アプローチの方向性◆
A国:麻痺側の機能改善を促し、並行して歩行訓練やADL訓練、利き手交換など行う
B国:麻痺側へのアプローチはほとんどせず、健側(今回はあえて非麻痺側とは言いません)を最大限用いてADL訓練に重点を置く
◆その結果として◆
A国:麻痺側の機能予後はB国より高いが、ADL面の自立度は低い
B国:麻痺側の機能予後はA国よりずっと悪いが、ADL面の自立度は高く、FIMの点数もB国よりはるかに高い
◆ちなみに◆
家屋構造の文化的違いにより、B国の脳卒中患者さんは電動車椅子を利用することがとても多い
どちらがA国で、どちらがB国かはおそらくおわかりだと思いますが、A国が米の国です。
どこまでも合理的、かつ人に頼らず自分のことは自分でしなければいけない個人主義が尊ばれる国らしいといいますか。
で、私はどっちの国がいいかなんて決められません。
どっちがいいという答えを出すものでもないと思います。
が。
やはり決め手は、その患者さんの心理面でしょうか。
その方がどういった形の「回復」を求められるか、そしてどんな機能の獲得に満足するか、だと思います。
難しいけどね。
米の国の合理主義は悪くないけどそこまで・・・とも思うのですが、でも実際FIMが高いというのは、それだけの意味が大きい(文化的背景を考えても)のは確か。
日の本の国は、言い方を悪くすれば「どれも中途半端」、なのかもしれないしね。
本当は、もっと違った社会的事情も述べられました。
保険についてとか、入院期間の違いとか、いろいろ。
そういうことすべてをひっくるめて、このようなアプローチになることも天使ちゃんは話していたんだけど、私の中でその演題から一番印象に残ったことを抜き出して、今回は私なりにまとめてみました。
次はあまり空けずに書くからー。
中身はないけどさー。